着物に割烹着の歴史を調べてみたよの巻
星わにこ
2022/07/13 00:00
昨年春から、『ゴールデンカムイ』にどっぷりハマっている私なんですが、取材が非常にしっかりしていることで知られているこの漫画。建物も実在のものがモデルとなっており、ロケ地ではないけれど建物めぐりをするのもファンの楽しみとなっています。
建物のモデルの三大聖地と言われているのが「北海道開拓の村」(北海道)「明治村」(愛知県)そして「江戸東京たてもの園」(東京)です。なかなか北海道・愛知までは足を運べないのですが、江戸東京たてもの園に先日行ってまいりました。
ここには、尾形の父の花沢中将邸(外観)のモデルの三井八郎右衞門邸、鉄砲店や背景として使いまわされている小寺醤油店など、古い建物が多くあります。歴史的な建物としてはもちろんですが、ゴールデンカムイだけでなくいろんなアニメや漫画にもモデルとして登場するので、それを見て回るのも楽しみのひとつ。
<以下単行本派の方ネタバレ注意>
たてもの園には最終回で主人公杉元の幼馴染、梅ちゃんが女将として働く生花店もあります。
ここに登場する梅ちゃんの姿は、蝶々の着物に割烹着。絵を見ると蝶々は臈纈染ぽいかんじ。蝶の文様は蛹から美しい蝶となり羽ばたいていくということから、成長を祝う吉祥文様として愛されています。彼女が選んだ道を象徴しているかのようです。流石、野田サトル先生です。
そして着物の上に割烹着を着ていますが、馴染み深い昭和時代のレースやフリルがついているタイプではなく、シンプルな丸首のものです。そしてちょっと丈も長めでした。
この衿の形に興味が湧いて、割烹着について調べてみました。割烹着のルーツは1902年(明治35年)に赤堀割烹教場(現赤堀料理学園)で女性が和服で調理しやすいように考案されたものと言われています。やがて日本女子大学の実験着や作業着としても取り入れられ、一般に普及していきました。1907年頃に東京・銀座の花屋の女将がしていてもなるほど、な装いですね。
形はさまざまだったようですが、明治時代に調理場や学校で働く女性が使う作業着として誕生し、その便利さから大正時代には一般家庭に普及しました。その頃は丸襟が多かったようです。
昭和初期にはカフェーの女給さんの制服として、袖なし変形にレースや裾にフリルがつけた可愛いものが誕生し、フリルやレースがついたものが流行しました。
やがて戦争中には、「国防婦人会」の制服として、「着物競争を防ぎ、かつ活動を便ならしむ」ものとして採用され、割烹着に襷掛けの姿は愛国婦人の象徴となった時代もあります。この頃の衿の形は三角で、着物の衿合わせの形にそっています。レースなども贅沢は敵だということで姿を消します。
戦後は「お母さんの作業着」として、和服だけでなく洋服の上からでも腕までカバーできるエプロンとして家庭で愛用されました。これがいわゆる今、昭和生まれの私が想像する、角衿にレースがついていて裾はフリルになっている大量生産型の割烹着です。
同時に小学校の給食の配膳着にも使われるようになり、こちらは今でも子供たちが使っているところが多いと思います。自分が着たことより、子供が月曜の朝洗ってない給食着を出してくる悪夢を時々思い出します(笑)。
昭和でも時代が下がると、着物が一般的でなくなり田舎のおばあちゃんがチェックの丸首でアップリケとかついたやつを農作業や家事のときに着用するイメージに変容していきます。袖までカバーできるから、汚れ防止には一番いい形なんでしょうね。
確かに着物で家事やなにか作業をするときは、ぱっと羽織れる割烹着や水屋着があると便利です。今のように、なんでも汚れたらすぐに洗濯できなかった時代に重宝されたものでしょうね。割烹着にもその時代の流行があり、現代では和服で着る場合は裾が長く、シンプルで汚れが目立ちにくい色のものが好まれているようです。
なんだか、普段に割烹着が着たくなってきました。もう少し涼しくなったらトライしてみようかな!と思う単純なわにこでありました。